前編からの続き。
安土桃山時代、島津氏の侵攻
やがて信長と対立するようになった義昭は、1571年、各地に信長打倒を呼びかける。
いわゆる信長包囲網というやつで、毛利はこれに参加するために九州から手を引いた。
しかし、その義昭は1573年、信長によって京を追放される。
何せこの頃の島津氏は、当主で長男の義久の下に、闘将・義弘(次男)、知将・歳久(三男)、戦術家の家久(四男)の三兄弟が揃って最強だい!なんちゃって、アハハハハ…。
失礼。
博多の町のほぼ全土が焼失した。
ところがその龍造寺氏も、九州南部の支配を確固たるものにし、九州制覇を目指して北上していた島津軍に破れ、1584年、龍造寺隆信は戦死する。
1582年(安土桃山時代中期)、本能寺の変で信長が倒れ、統一事業を引き継いだ豊臣秀吉は、1585年、大名の私的戦争を禁止する惣無事令(そうぶじれい)を発令するが、島津義久はこれを無視し、日向側と肥後側から北進を続行。
岩屋城主・高橋紹運は秀吉の援軍が来るまで島津を食い止めようと、総勢わずか763名で篭城し、島津軍に多大な損害を与えるが、およそ半月持ちこたえた後、島津軍の総攻撃で全滅。
島津軍は態勢を立て直し、博多へ進軍。
![]() | 大野城(おおのき)跡の少し手前、岩屋山山頂にある岩屋城の本丸跡。石碑は高橋紹運の家臣の子孫が建てたとのこと。下の写真は岩屋城跡からの大宰府~観世音寺方面の眺め。 |

![]() | 岩屋城跡から道路を挟んで麓側にある高橋紹運の墓(胴塚)。 |
このころ、大友氏の本拠地・豊後では、島津家久が大友領深く侵攻していた。
ようやく長宗我部元親ら秀吉の援軍を得た大友勢は島津軍と激突するが、大敗。
大友氏大ピンチ!の事態に及んで、やっとのことで家康との争いに決着をつけた(家康を臣従させた)秀吉が、ついに自ら20万の兵を率いて九州征伐を開始する。
(このつづきは本編で)
いや~、だらだらとすみません。
あやふやな部分も多いので、おかしな点はご指摘ください。
まあ、ひとことで言うと、
商人の町・博多はなんやら訳分からん武士の争いに何度も巻き込まれ、その度に戦火に見舞われた。
ということですね(それじゃ結局、冒頭といっしょじゃん。この長文の意味なし!)。
柑子岳城(こうじだけじょう)
福岡市西区今津柑子岳
高鳥居城
立花山城跡
岩屋城跡
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